鬼才とか天才なんて言われていますが、そういったわかりやすいアイコンでは表現してはいけないのです。
今日、改めて感じました。
普段の鯉八さんは、高座からは想像できない人物です。
ドアの開け閉めがとても雑で、バタンバタンとうるさい。
あ! 今楽屋入りしたな
すぐわかります。
階段の上り降りも、靴底を叩きつけるように大きな音を立てます。
あ! 今階段登って楽屋入りしようとしているな
すぐわかります。
カントリーマアムを食べる時も、包装紙を引きちぎりますし、飲み終わった紙コップは握りつぶします。
繊細とは反対側に居るのが鯉八さんです。
高座で見る鯉八さんは、キャラクターを演じているのです。その鯉八さんが落語の中でとある人物を演じる。
今回は、その登場人物まで劇中で演じていたのです。
設定としては誰かが思いついてやっている事だとは思います。
ひょっとしたらミステリーのギミックとして使われてるかもしれません。
鯉八さんの凄いところは、この先です。
何階層も演じているのに、上位の階層より下位の階層の方が人間味があるのです。
劇中劇の登場人物がとても魅力的なのです。
素の状態の鯉八さんに比べたら雲泥の差。
もう、普段楽屋に居る鯉八さんは、空っぽと言ってもいいぐらいです。
鯉八さんが表現したい世界の為に存在する、ただの器。
それが普段の鯉八さんです。
道ですれ違っても、きっと気が付かないでしょう。
彼の魂は、落語の奥深くにしか存在しないのですから。
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